私がシリア国内取材をした理由 ~読売・産経に危険地取材を「撃たれた」元記者の回想~ 貫洞欣寛(かんどう・よしひろ)

後ろから撃たれた、と感じた。

朝日新聞に勤務していた2015年1月30日、私はクルド勢力などがイスラム国(IS)から奪還したシリア北部のアインアルアラブ(クルド名コバニ)に入り、取材した。破壊され尽くした街と苦しむ市民の状況を31日付け朝刊に出稿すると、読売新聞がその日の夕刊で「外務省が退避するよう求めているシリア国内に、朝日新聞の複数の記者が入っていたことが分かった」と報じたのだ。

紛争地で記者が取材するという職業柄、当たり前のはずの行為をわざわざ記事にするのは、取材したこと自体が問題だと提起した、ということである。翌日は産経新聞が、同時にアレッポに入っていた同僚の春日芳晃記者に焦点を合わせるかたちで「朝日新聞シリアで取材/外務省、強い懸念」との見出しで、「記者も当事者意識を持ってほしい。非常に危険で、いつ拘束されてもおかしくない」という匿名の外務省幹部のコメント付きで報じた。こうした記事を引用し、ネット上では私達に対し「世間に迷惑をかけるな」「ISに拉致されて勝手に死ね」といったコメントがあふれた。

それまで「日本の新聞記者は危険な現場に行かない」と批判されることはあった。だが、「危ないことをするな」と批判される日が来ることなど、全く想像していなかった。それだけではなく、私達の記事を読んでトルコ国境地帯の取材に向かおうとしていたフリーカメラマン杉本祐一さんが、外務省からパスポートの返納命令を受ける事態となった。「危険だから」と政府が報道関係者のパスポートを取り上げるなど、前代未聞だ。

警備のため各地の立つ民兵。それを、カメラマンが競って写真に収めていた。

端的に言って、私がコバニに入った理由は、高い確率で安全が保証されていると感じたからだ。

私は2004~7年と2010年4月~12年8月まで二度にわたり中東アフリカ総局員(=カイロ特派員)を務め、特派員になる前に出張ベースで取材した2001年のアフガニスタン米軍空爆とイラク戦争(2003年)を皮切りに、イラク・バグダッド支局での短期駐在取材やパレスチナ、レバノンでのヒズボラとイスラエルの戦闘(2006年)、アラブの春(2011年)における各国の大規模デモと政権崩壊、それに続くリビア、イエメン、シリアの内戦を継続的に現地で取材してきた。シリアは2004年以降、何度も取材に訪れ、内戦状態となった2012年にも4回、ダマスカスなどに入っている。

コバニ入りした当時はニューデリー支局長で、後藤健二さん拉致事件で中東特派員勢が手一杯となったため、東京本社から応援要請を受けて向かった。自分で言うのも口幅ったいが、日本の新聞記者でも紛争地取材の経験はかなり豊かな方だろうと自負しているし、だからこそ応援に行けと言われたのだろう。とはいえ、シリア北部の反体制派支配地域に入ったのは、あの日が初めてだった。

それ以前のシリア取材はすべて、アサド政権の報道ビザを取得した上で、政権掌握地域での取材を中心に行ってきた。米英などの記者が反体制派地域にアサド政権のビザを取らず(=アサド政権から見れば“密入国”)、トルコから越境して取材するケースが出てきた2012年初頭の段階で、私もこの手段で反体制派地域を取材することを検討した。だが、現地の情報を収集しても、安全を担保する手段は容易には見つからなかった。反体制派の動きは流動的で、信用に足るカウンターパートを見つけるのは容易ではない。

反体制派のなかでも対立関係があり、すでにイスラム過激派が流入している様子も見て取れた。さらに、反体制派地域に対するアサド政権軍の攻撃も激しい。当時の中東アフリカ総局長と協議し、「重要な取材ではあるが、単独でいま行くのは危険すぎる。当面は政権支配地域の直接取材と、関係者へのインターネット電話取材等を組み合わせて記事を書いていこう」という方向で行くことにした。

トルコ側の国境の扉を超え、中間地帯をシリア側に向けて歩く報道陣。青い扉の向こうはコバニだ。

同年2月にホムスで米国人のメリー・コルビン記者らが政府軍の砲撃により死亡し、同じ頃、イラク戦争報道などでピューリッツァー賞を2度受賞したニューヨークタイムズのアンソニー・シャディード記者がシリアからトルコに戻る途中、馬に近づいたことでアレルギー性のぜんそく発作が起き、その場で亡くなるという思わぬ出来事もあった。そして同年8月には、アレッポで日本人フリー記者の山本美香さんが殺害された。私もイラクやレバノンの現場でご一緒した方だ。断腸の思いで彼女の死を伝える記事を書いた。とはいえ、ここであの時アレッポに行った山本さんを批判したいのではない。彼女には当時、入るだけの理由と、安全確保の手段があったはずだからだ。それを上回る運・不運や偶然が、紛争地では時に運命を左右するのも、残念な現実だ。

あの日、私は同僚のカメラマン、トルコ人スタッフとともにトルコ最南部に設置されたシリア難民キャンプに向かった。難民の思いを聞き、現状を報じるためだ。

そこに偶然、地元シャンリウルファ県の知事がキャンプの視察に現れた。トルコ国営テレビ(TRT)をはじめとする地元メディアの記者やAP通信、AFP通信など各国の報道陣も取材にやってきた。私もその70人ほどの報道陣に混じり、1時間ほどキャンプ内の施設を見て回った。その後、知事は報道陣をキャンプの本部テントに集めて言った。
「みなさん、コバニに行きたいですか」
報道陣は驚いて互いの顔を見合わせた。
知事は続けた。
「本日は皆さんに対し、特別に越境許可を出します。ただし、午後4時までに必ず戻ってきてください。国境の扉を再び閉鎖します。行きたい人は、今から回す紙に氏名と所属メディアの名を書いてください」

私たちが署名を終えると、30分後に国境検問所に集合するように言い渡された。

トルコ南東部、そしてシリア北部の国境地帯には、「国を持たない世界最大の民族」といわれるクルド人が暮らす地域が国境を越えて広がる。知事の話を聞いて直感したのは、国内でクルド人の分離独立運動を抱えるだけに「シリアのクルド人に冷たい」と国際的な批判を受けていたトルコ政府としては、クルド系シリア難民を手厚く保護し、さらにクルド人の要衝コバニの再建に協力している姿を世界にアピールしたいのだろう、ということだ。

また、2012年からコバニなどシリア北部のクルド人地区を実質統治してきたクルド人組織クルド民主統一党(PYD)とその軍事部門、人民防衛隊(YPG)との事前の連携がなければ、このように大々的に記者を呼び込むことは不可能だ。さらに、PYDとYPGにとっては「イスラム国を撃退した」とアピールし、経済・軍事援助を集める好機だけに、何が何でも報道陣の安全を確保するはずだ。トルコとクルド双方がそういう姿勢で記者を入れるのだから、よほどのことが無い限り安全に取材して戻ってくることができるだろう。そう判断して東京本社に状況を説明し、編集局長室の了承を得たうえで、取材に向かうことにした。

国境の鉄の扉の向こうは、がれきの山だった。緑豊かなトルコ南部の田園地帯から、たった一つの扉を超えれば、破壊され尽くした地獄が待っている。これほど落差の大きい国境越えは、世界でも珍しいだろう。
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