友人として見た安田純平さん  藤原亮司 ジャーナリスト/ジャパンプレス

 

安田純平さんに初めて「会った」のは、2005年10月に公開された映画、「人質」の画面の中だった。東京新聞の吉岡逸夫氏が撮られた、イラクにおける日本人誘拐事件を扱ったドキュメンタリー作品。その中の「人質」の一人として、安田さんは描かれている。その映像で彼の顔を見たときの衝撃を今も忘れることができない。そこに写っている顔は、まるで人間を信用しなくなった野生動物のようだ、と私は感じた。人はどれほどの苦悩や怒り、やり切れなさを経験すればこのような顔になるのかと。

この映画に描かれたのは、イラクで「人質」になった、日本人ジャーナリストや人権活動家に対する日本社会の中でのバッシング、自己責任論に対する問いかけである。しかし、メインキャストの一人として登場する安田さんは、正確には「人質」ではなかった。彼はイラクで取材中に地元武装勢力に身分照会のために一時的に拘束されはしたが、拘束したグループからは彼の解放に対する身代金請求もなければ、日本政府への何らかの要求もなく、身分照会が済んだ数日後には何の代償も求められずに解放されている。たまたま、同時期に拘束された他の3人の日本人誘拐事件とタイミングが重なったために大きく騒がれ、自己責任論という意味不明の批判に晒されただけにすぎない。

しかし、それでも日本社会や日本人は、その実際の背景を顧みることなく安田さんをバッシング対象の一人とした。「国や政府に迷惑をかけた」「国民の税金で救出された」「なぜわざわざ危険な場所に行ったのか」と。そのバッシングは、ネットの空間だけでなく、報道においても執拗だった。

繰り返しになるが、彼は日本政府による交渉や身代金の支払いで救出されたのではない。また、帰国にかかった飛行機代など一切の経費もその後精算し、外務省に返済している。つまり、何の貸し借りもないのだ。

「人が動いているだけで迷惑をかけた」という全く的外れな意見もあるが、邦人保護は政府の本来の業務のひとつであり、国民が何らかのトラブルに巻き込まれたときに政府や役所が動くことは、なんら「特別な仕事」ではない。「人が動くことで迷惑」というのであれば、日常的に起きる事故や事件で救急車や消防車、パトカーが出動することさえ「人を動かした」と批判される対象になってしまう。

話が逸れた。ジャーナリストである安田さんは、彼自身の仕事で実績を積み重ねていくことでしか、理由なくきせられた「汚名」を返上する術はない。彼はその後も、「ジャーナリスト」としてだけでなく、イラクの軍事施設の料理人として潜入取材を行うなど、あらゆる方法を使ってイラクに通い続け、イラク戦争やその後の宗派対立による内戦状態を取材し、戦禍にあえぐ人々の姿を伝えた。

それは彼が理不尽にも背負わされた「汚名」に対する、彼自身の落とし前の付け方だったと私は感じている。「人質」として扱われ、世間からバッシングを受けてから10年もの時間をかけて、彼はその仕事で「汚名」を晴らしたのだ。その姿勢に、私はいつも意志の強さと一貫した信念を感じていた。

安田さんが伝えるルポにはいつも、そこに暮らす人々への優しいまなざしがあった。生まれた環境や国家の状況に左右され、その日常を理不尽に壊される人々に寄り添い、日本に向けて発信していく。世の中には力を持つ者とそうでない者があり、弱者の側に立たされた者がその暮らしを脅かされるとき、ジャーナリストであれば弱者の側に寄り添い伝えることがその使命であり、その使命を果たそうとしない者はもはやジャーナリストですらない。私にはそのような覚悟が常に、安田さんの職業意識の中に貫かれているのだと感じられた。

シリアにおける取材でも、その姿勢はもちろん変わることはなかった。2012年、彼にとって初めてのシリア取材では、シリア反体制派組織と行動を共にし、解放区に生きる兵士や一般の人々の姿を追った。帰国後にTBSの「報道特集」で伝えた映像ルポは、同業者の私が羨むほど秀逸であり、内戦下に生きる人々の姿を生々しく伝えていた。

安田さんはおそらく、その後もずっとシリアでの取材を考え、現地に入る方法を練り続けていたのだろう。しかし、「イスラム国」の台頭や混迷を極めるシリア情勢を考え、可能な限り安全を担保できる取材の方法を探り続けていたはずだ。後藤健二氏、湯川遥菜氏が殺害され、また多くの外国人ジャーナリストや人道支援団体メンバーが「イスラム国」や「ヌスラ戦線(現・シリア・ファトフ戦線)」などシリア反体制派組織に拘束されたり、戦闘に巻き込まれて命を落としたりしている状況とその背景を、彼は綿密に分析していた。

現在のシリアへの入国、その中での取材がいかに危険であるかは十分に承知していた。そのうえで、それでもシリアには伝えなければならないことがある。そこには誰にも知られずに奪われてゆく命、壊されてゆく暮らしがある。それを伝えようとする努力を怠ることは、ジャーナリストとしての職分を放棄することに等しいと、彼は考えていたに違いない。そして2015年6月23日、安田さんは再びシリアに向かった。

安田さんがシリアで拘束されてから1年近くになる。過去にイラクで拘束され、いわれなき批判に晒された経験からも彼は、幾重にも安全チェックを行い、シリア入国を試みたはずだ。日本人が、あるいは日本の「世間」が、「失敗者」にいかに冷酷であるかはどの日本人よりも彼は身に染みて知っている。また、できうる限りのミスや事故を避け、その仕事を全うして終わらせることは、彼がプロの職業人として貫いてきた姿勢だ。

しかしそれでも、どんな職業においても思わぬミスや事故は起きうる。厳しい訓練を重ね、経験を積んだ消防士も登山家も、ときには事故に遭い、命を落とすこともある。安田純平は駆け出しのジャーナリストではない。バッシングを乗り越え、自分自身が犯したミスを検証し続け、経験を積み重ねた熟練のジャーナリストである。それでも、「事故」に遭った。それはジャーナリストにとっての労働災害とでもいうべき出来事だと私は考える。

今年3月16日、ヌスラ戦線に拘束されている安田さんが語りかけるビデオが、インターネットなどで公開された。その中で彼は、家族へのメッセージを伝えている。
「妻、お父さん、お母さん、兄弟、みんな愛している。いつもみんなのことを考えている。みんなを抱きしめたい。みんなと話がしたい。でも、もうできない」

家族への愛情を語り、話がしたいと言いながら、「もうできない」と締めくくっているこのメッセージの意味を、「私の解放は身代金交渉によってでしかできないと言われている。しかし、私はそれを望んでいない。だからここに居続けるしかない」という決意を伝えたのだと思っている。

日本にいるとき、私は安田さんの口からジャーナリズムの「大義」だの「意義」だのは、一度も聞いたことはない。そんなくだらない理屈を吐き、自身の仕事の正しさを語るような人間では決してない。しかし、一緒に酒を飲みながら、あるいは仕事の合間に彼と交わした多くの言葉の中にいつも、私は安田さんの職業意識の高さを感じていた。

安田純平というひとつの「目」が閉ざされたままになることは、日本のジャーナリズムにとって大きな損失であることは間違いがない。一日も早い解放と、彼の仕事の再開を願ってやまない。だが一方で、「政府による解放を望まない」という彼の痛々しいまでのプロ意識を、私は何よりも尊重したい。いつか、その身が自由になったときに書くであろうシリアでの体験記を楽しみに、私は彼の帰国を待ち続けている。

-安田純平さん拘束関連